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2015年2月24日 (火)

鷲田清一『京都の平熱』

鷲田清一『京都の平熱 哲学者の都市案内』講談社学芸文庫(2013年4月)

特集が『週末京都。』だったアンアンの特集号をさらりと眺めた後、いっしょに買った「ひとりのずぶずぶの『京都生活者』の、羞ずかしいくらいに真正直な京都案内」を読む。おもろい。

この本で一番楽しかったところは、「うどんの佇(たたず)まい」と題された小節の文章。

《 うどんはおつゆののなかに漂っているが、蕎麦のように密集しているわけではない。麺はたがいに折り重なりあっても密着してはいけないのであって、おつゆのなかをそれぞれがゆったりとたゆたうというのが美しい。そして直線裁ちにされたあの同じ幅。それは衣の縞に似て、曲がりくねってもずっと平行を保つ。その姿が、おつゆになずんで輪郭を崩してしまったら元も子もないし、同じようにおつゆになずんで汁の色に染まってしまったら終わりである。》(p.98-p.99)

おつゆのなかにゆったりとたゆたううどんのたたずまいを想像して、思わずにっこりした。まあ、うどんがとぐろをまいていたり、幅がまちまちだったりしていたら、確かにげんなりするだろうな。

《かの九鬼周造が縞についておもしろいことを言っていた。どこまでも交わることのないその平行模様は、惹かれつつも合同しない異性間の緊張、つまり媚態という「いき」の風情を表しているというのだ。あるいは、密着や執着に引きずりこまれぬという意気地や諦めの境地。だから同じ縞でも旭日のように中心に収飯するものは野暮となる。うどんはそこまで距離にこだわらない。もつれあうのを厭わない。おのれを失わない程度には。むしろ麺を一本だけすするというのはみっともない。たがいに温めあうというところがあり、冷めるならいっしょにというところがある。だからうどんはどこかほのぼのしている。温かくてつるつる、喉にもやさしい。》(p.99)

九鬼周造は「縞」の平行について語り、鷲田清一は「うどん」の平行について語っている。九鬼周造もよくも大まじめにここまで言うな(笑)と感心するけれど、鷲田氏の牽強付会ぎりぎりの立論も、何だかほのぼのとおもろいので許してしまう。

《にもかかわらず、である。体をふれあっても、味まで混じったら台なしなのである。九鬼は色についてもやはり、「色の染(そ)みつつ色に泥(なず)まない」のが「いき」だと言っている。「色っぽい肯定のうちに黒ずんだ否定を匿して」いなければ、と。うどんは汁や具のなかに混じっても、どこまでもうどんそのものとして味わわれるものだ。すぐとなりにあっても、味はからみあってはいけない。うどん好きはそこだけはゆずれない。蕎麦好きもはじめはつゆをつけないで蕎麦そのものの味にひたるが、うどんはどこまでもつゆといっしょ。しかし、いっしょだけれど別々。そう、アローン・トゥゲザーという心根なのである。》(p.99-p.100)

アローン・トゥゲザーで、こらえきれずに爆笑。

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